信じるものは救われる

こんにちは。 トリニティ・コークリエーターの真理(Mari)です。

年明け1月3日の一斉遠隔ワークは参加されましたか?

無条件の神が伝える惑星シナリオでは、次の2月2日を経て3月10日から狂気の世界へ突入することが伝えられていて、その神とともにマリアトリニティも形を変えて進もうとしています。

私もその神の意図と共に歩めるよう、ふと聖書まんがの「使徒言行録」を読んでいたのですが、そこでまたハッとさせられることがありました。

この使徒言行録には、キリストの使徒達が神を伝え歩いていく伝導の旅が描かれていて、そのなかで人々が神を信じられるように聖霊が降りたり奇跡が起きたりしていきますが、

やっぱり神を信じようとしている人達によって奇跡が起きるんですよね。

世のなか誰でも(特に病気で苦しい時はなおさら)奇跡を求めたくなると思うのですが、いったい誰にどんな奇跡を求めようとするのでしょうか?

おそらく、自分が辛くて苦しすぎる時は、ただそこから逃れたくて解放されたくて、現状が少しでも良くなるように求める人が多いですよね。私もずっとそうだったので、その気持ちもよく分かるしそれが当然だと思います。

そのために医療があるし、西洋医学や代替療法やその他にも多くの健康法が存在し、多くの人はそれを信じて頼って良くなる奇跡を願います。

ただ、無条件の神を信じて生きようとし始めると、その奇跡を求め方は少し違ってきてしまうのに気付いてしまいます。

自分にフォーカスして(3D)辛くて苦しい状態を(1D)少しでも良くしたい(2D)という、二元性と時間と分離のアトラクションの奇跡を求めることになるんですね。

でも、私は別にそれが絶対にダメとは思っていないし、そのアトラクションでを求めて少しでも楽になることを否定はしないです。だって、どうしても求めたくなるし、それも含めての無条件だから。

ただ、無条件の神はその何よりも最強なんです。それを常に心に留めておいて欲しいと思うんです。

この世の全ての条件付けであるアトラクションを創り出しているのが無条件の神という存在だし、その神とともに無条件の愛を創り出すことが人間が創られた目的だし、それをどこまで信じようとするかで必要な時に必要なものが与えられるんですね。

辛い現状の何かをどうこう変えようとするのではなく、ただ神自身の観点とともに在れるように祈り、そこに神が起こす奇跡を信じる。

無条件に全てを自分自身に与えながら、無条件に全てを自分自身から受け取り委ねながら、無条件に交わって充たされ続けている、その自分自身で自己充足している神自身の主観とともに在れるよう・・・。

この父と子と精霊の三位一体の無条件の神は、実は身近などんなところにも観ることができるし、常に奇跡を創り出しているんです。
(ご神事となる奇跡は、時と人と場所がかなり限定されますが)

それを私たちが観ようとしているか?それを奇跡として受け取れているか?
そしてそれは、それをどれだけ信じられているか、信じようとしているか、で変わってきます。

使徒言行録にもあるように、神が奇跡を起こす時はそれなりの理由があるし、神を信じる力が弱いと神が奇跡を起こしたとしても神の奇跡とは捉えられないし、じゃあどうしたら?って話にもなりますが、

この神を信じようとして行動して、そこから神の奇跡を観せられて、そしてまた深く信じられて行動して、また神の奇跡を観せられて、を繰り返しながら、

たとえ病気や障害があったとしても、その心と頭と体は神自身の自己充足に充たされながら、ともに共同創造へと続く人生を歩んでいけるんだろうなと思います。

何よりも、まずは信じようとするところからしか始まらない。

気になる方は、ぜひ一度でも話をしてみれたらと思います。(*^^)v

ではでは。

よかったらシェアしてね!

この記事を書いた人

コメント

コメントする

目次
閉じる